文字サイズ
  • トップ
  • インタビュー「私たちがヤングケアラーだった頃。」

私たちがヤングケアラーだった頃。

いまヤングケアラーとよばれる、
こどもたちのために、知ってほしい幾つかのこと。

まだヤングケアラーという言葉が知られてなかった頃から、家族の介護と、そこから生まれる様々な悩みを抱えたこどもたちがいました。今回ご登場いただいた金子さん、仲田さんも、そんなヤングケアラーだった方々です。

現在もご家族のケア、またその経験から進まれたお仕事と、公私ともにケアにかかわるお二人に、当時の想いや、ヤングケアラーといわれるこどもたちを取り巻く課題などを、明治のヤングケアラー・樋口一葉を舞台で演じられたことから 、この問題に関心を寄せる女優の貫地谷しほりさんがうかがいました。  

目次

ヤングケアラーだった経験が導いた、いまの仕事。

貫地谷しほりさん(以下敬称略):
今日はよろしくお願いいたします。
私が20代半ばぐらいのことなのですが、当時、現場のマネージャーだった方が、朝から晩まで大変な撮影が続く中で、とても眠そうにされていたので、どうしたのですかと訊ねたところ、お母様の介護をされているということでした。聞けば、もう学生時代からそのようなケアをされていることを聞いて、ヤングケアラーという言葉は当時まだなかったのですが、そういう方々がいらっしゃるんだなということをその時に初めて知ったんですね。
おふたりもお若いうちからご家族のケアをされてきたという立場から、いろいろとお話をうかがわせてください。では、まず現在のご職業をうかがってよろしいですか。

金子萌さん(以下敬称略):
自分がケアしてきた経験を活かして、在宅で家族の介護をしている介護者を助けるための会社を起業し、その会社の経営をしています。

仲田海人さん(以下敬称略):
作業療法士をしています。
こどもから大人まで、あらゆる障がいがあります。その心の病から身体の病まで、何でも対応できるようなリハビリの仕事です。

貫地谷しほり:
ご自身の経験が職業にも反映されているのですか。

金子萌:
そうです。自分がケアをしてきた中で、介護をしている側へのピアサポートが、すごく少ないことを痛感したんですね。
介護者同士がお互いにつながる団体や介護者の家族会、相談窓口などはありますが、NPOやボランティアで成り立っているところがすごく多いんです。そして、そうした善意で成り立っているところだと、持続的に回っていかなくなるケースも目にしてきました。そこをビジネスという形で、善意に依存しなくても継続的にケアラーを助け続けられるような仕組みをつくりたいと思って起業しました。

貫地谷しほり:
私の母が、ずっと祖母の介護をしているんですね。受け入れるまでに、いろいろな時間がかかっていた母の姿を見ているので、本当にそういう人たちがいてくれて有り難いなと思います。
それでは、どなたのケアをされていたのでしょうか。

金子萌:
父のケアをしております。私が17歳、高校2年のときに、父が若年性の認知症とパーキンソン病を発症しました。それ以来11年以上、在宅でケアをしています。

仲田海人:
3歳上の姉です。統合失調症という精神疾患を抱えています。姉に症状が出始めたのは中学生で、イジメがきっかけでした。そのとき僕は小学校の高学年で、その頃から続いて今にいたります。

貫地谷しほり:
どのようなケアをされていらっしゃるのですか。

金子萌:
認知症やパーキンソン病というのは、最初そこまでの症状はないのですが進行し、その時期によって状況は異なっていきます。今は、ほぼ全介助の状態です。朝起きてから着替えの手伝い、食事、入浴、排泄、すべての介助があります。それを、介護にまつわる行政やケアマネージャーさんの様々な手続きなども含めて、母と二人で協力しながら行っています。

仲田海人:
僕の場合、姉は発症が始まったとき、すでに不登校になっていて昼夜逆転の生活をしていました。夜になると眠れない姉が悩みを聞いてほしいと、僕の部屋に入ってきます。「悪口を言われている」と言うのですが、いわゆる幻聴といわれるものなので、本人も本当に言われているのかわからない。そんな混乱した状態の姉の悩み相談を夜な夜な聞くという毎日でした。
学校から帰ると姉が暴れていて警察が来ることもあったし、包丁を振り回したり、物を投げたり。喧嘩の仲裁をすることも多かったです。僕が中学、高校になっても、姉の症状は落ち着いていなくて精神科の病院に何年も通院しているような状況でした。
そうした状況がつづいていたので、なんとか自分で解決しないといけないと思い作業療法士として、いまリハビリの仕事をしています。自分で学んで、社会人になって、やっと福祉を使って姉を自立させようと考えるようになり、姉をグループホームに住まわせることができました。姉も、そこに入ったことで症状も落ち着いて2年以上がたちます。

ヤングケアラーが抱える、肉体的つらさと、精神的つらさ。

貫地谷しほり:
ケアをしていて、つらいと思っていたことはなんですか。

金子萌:
ひとつは、肉体的な負担です。朝起きてから夜寝るまで、体格の良い男性を支えてケアする、という物理的な負担です。もうひとつは精神的な負担です。父は認知症もあり、変わっていく父が受け入れられませんでした。

貫地谷しほり:
仲田さんは、どういったことがつらかったですか。

仲田海人:
高校の進路選択のときに、はじめて学校の担任の先生に相談したんですね。そうしたら担任の先生も困っちゃって、スクールカウンセラーへの相談を勧められました。しかし、お話しした心理士さんにも、君の心の手伝いはできるんだけれど、君がいま困っている家庭の問題には介入できないって、はっきり言われてしまいました。
当時、工学部に行きたいという夢があって僕なりに頼ったのですが、結果どうにもならなかった、ということです。

貫地谷しほり:
それは具体的にどういった解決を期待して相談したかったのでしょう。

仲田海人:
家族みんなが困っていました。僕だけではなくて姉も症状に苦しんでいるし、仕事をやめて向き合わなくてはいけない母も、仕事をしながら姉と向き合っている父も苦しんでいる。病院にはかかっていても、家庭で起こっていることは全然解決しなくて、どうにかしなくてはという弟なりの想いもありました。
なぜ相談したかというと、進学で家から離れることで僕だけ自由になっていいのかという後ろめたさがあり自分が抜けることで家族のバランスが崩れることが心配だったからです。僕に代わってくれる誰かいてくれればいいなと思って、大人に相談したというところが大きかったです。

話を聞いてくれるだけで、味方でいてくれることがわかる、気持ちが楽になる。

貫地谷しほり:
先程、金子さんは、変わっていくお父様を受け入れられなかったとおっしゃっていましたが、それを当時、17歳の自分としてどう受け入れていったのですか。

金子萌:
受け入れられなかったです。受け入れるのに10年かかりました。
本当に受け入れられたのは去年ぐらいです。

貫地谷しほり:
それは、何かきっかけがあったのですか?

金子萌:
10年経ったということですね。父が発症したときは2011年で、翌年はiPS 細胞で山中先生がノーベル医学・生理学賞を受賞したという頃でした。5年後、10年後にはきっと治る病気になっているから大丈夫と、自分に言い聞かせている部分がありました。ですが、10年経ったのに全然良くもなっていない。父の病気は良くならないだろうってことが本当にわかったのが去年で、受け入れざるを得なかったということです。
それまでは父のことは、周りに言えずにひた隠しにしていました。

貫地谷しほり:
それは、言い出す空気でなかった、それとも言いたくなかった?

金子萌:
両方ですね。普通の高校生、大学生でいたかったし、可哀想な子と見られたくなかったので言えませんでした。そうしたことも含めて去年ぐらいから受け入れられるようになって、やっと周りに発信できるようになりました

貫地谷しほり:
仲田さんも、友人や周りの人に対して話すのは抵抗がありましたか。

仲田海人:
僕は割と包み隠さず話すタイプです。話して場がしらけたこともありますけど、そういう経験も踏まえたうえで、話す側の問題もあるなと思いました。
悲しいテンションで話すのか、当たり前のように話すのか。友達が自分の家族のことを話すように話せる自分でなかったなぁと思うようになって、開き直って話すようになりました。それで困っちゃう人もいましたが、理解しようという人もいたし、話した後も友人として付き合ってくれる友達もいました。希有なほうかもしれませんが、友達関係では開き直ってこれたのかなと思います。

貫地谷しほり:
話をすることで楽になるということはありますか。

金子萌:
ありますね。話を聞いてくれるだけで、味方でいてくれているというのが伝わってきて楽になります。 父の発症は高校生の頃で、これから進学をというときだったので不安もありましたが、担任の先生に相談するという考えはなかったです。でもその中で、お母様が乳ガンになった友達がいて、彼女ならわかってくれるんじゃないかと思い、話したことがありました。その友達が、「何か大変なことがあったらいつでも言ってね」って言ってくれたとき、すごく心が軽くなりました。 今、10年経って発信できるようになって、当時の私の状況を知らなかった友達から「支えてあげられなくてゴメンね」「もっと言ってほしかったのに」という、いろいろな声をいただきました。中には「実は私も…」という友達もいて、皆さんいろいろあるんだなと。

仲田海人:
多いですよね。カミングアウトしていくと、昔の友達も「実は…」と言ってくるということが。

貫地谷しほり:
皆さん、隠しているとか、実は言えないってことがあるんですね。

金子萌:
自分だけが特別不幸で悲しいと思っていたのですが、みんないろいろあるんだなと思えたことも大きかったです。味方になってくれるとか、そこまで特別ではないですが、話すことで楽になった部分はあります。

仲田海人:
家族のことを言わずにいたり、言葉を濁したりすると、友達に対して隠し事をしている後ろめたさが強くなります。だったら最初から開き直って話しちゃえ、と思うようになりました。ケアラーの人というのは皆さん、周りに気をつかったうえで、言い方や表現を変えているんですけど、正直に言えない難しさがあります。それゆえにピアサポートという似た境遇の人の中だと、気をつかわずに正直に話せる解放感、居心地の良さはあると思います。

貫地谷しほり:
もっと早く知りたかったなということはありますか。

仲田海人:
10代の頃は、特に情報だと思います。
僕は中学校のときが一番悩んでいて、ちょっとヤンチャしていたことがあるんです。そのとき、担任の先生に内申書にいいからと言われて、夏休みにボランティアに行きました。
介護老人施設など、様々なボランティアに行く中で、障がいにもいろいろあるし、いろいろな人が、いろいろな悩みを抱えて生きているということを知りました。他の人の人生に目を向けることで、自分だけじゃないってこともわかって、当時は僕が世の中でいちばんつらい人間なんだと思っていたのですが、それが思い過ごしだなと気づくことができました。

金子萌:
悩みがあるのは、自分だけじゃなかった。他の人にもいろいろあるんだってことは、もっと早く知りたかったですね。
あと、制度やピアサポートについては、知ることができたなら、早く知れるほど良かったと思います。

ケアと心の距離を保つのも、必要なこと。

貫地谷しほり:
ただでさえケアと学業があったり、お仕事もあったりして本当に忙しいと思うのですが、その中で自分の心の時間をもつということはできていましたか。

仲田海人:
僕は、イヤになったら距離をおくということを徹底していました。先程、ヤンチャしてたと言いましたが、背負いすぎないでイヤになったら家出したり、夜にバイクで家を飛び出したり。そうした物理的な距離をとることが心の距離を保つことにつながっていました。
部屋にずっとこもっていたら、隣で姉がワーって騒いでいて、避けようと思っても避けられない現実があるので、僕は逃げるようにしていました。

金子萌:
私は、いま偉そうに話していますけど、ずうっと現実逃避です。なんでこんな思いをしないといけないんだろうって。ケアによって普通の大学生活や自分の夢を断ち切られたくないという想いが強くて、そこの時間を侵されないようにしていました。その分が、母にしわ寄せとしていっていたと思います。
私にはスイッチがあって、家では父の介護をするんですが、大学に行けばそのことは一切友達に話さず、別の人格を生きていました。二重人格ですね。
大学に行けば普通の大学生活、でも家に帰ればつらい現実があって…。でも、ずっとつらい現実だと身が持たないので、あえて普通の大学生活を送ることで身を守っていたんだと思います。

貫地谷しほり:
今は、どうですか。

金子萌:
去年ぐらいから、周りにも発信できるようになったので、それも含めて「私の家族」と受け入れて私らしく生きられています。
仲田さんは発信されたとおっしゃっていましたが、それまで私はひた隠しにしていました。

仲田海人:
僕も、行く場所や仕事で役割に応じて、ちょっと違った側面を持っていますし、それはある意味、当たり前で自然なことだと思いますよ。ずっと僕も自然体ということではないです。

貫地谷しほり:
みんなそうですよね。私も外ではしっかりしなきゃとかありますが、家ではダラダラと過ごしちゃう日もありますし。
やはりケアをしていると、家でゆっくりする時間というのはなかったということですよね。

仲田海人:
神経が張りつめていて、しかも睡眠時間も少なかったので、学校に行くともう体調が悪くて。自律神経失調のような症状が中高生の頃に出て、遅刻・早退をよくしていました。
自分自身の体調を崩すこともあったので、距離をとったとはいえ、それをコントロールするのは必死だったと思います。

貫地谷しほり:
周りでは普通に暮らしているお友達がいたと思うのですが、その方々を見てどういう気持ちになっていましたか。

金子萌:
なんで私ばっかりこんな思いしなくてはいけないのと思っていました。私の夢見ていた大学生活を諦めたくない。そういうところで父や母に「パパのせい」といったつらい言葉を何度か言ってしまったことがありました。

仲田海人:
僕は仕事しながら大学に行っていたので、同じ学年や学部の人とばかり一緒にいるわけでなかったです。ボランティアがきっかけで、いろんな世代の人と関わっていたので、意外と物をよくわかってらっしゃる社会人や、よく理解してくださる人もいて、自分の居心地のいい世代の人とつるむような生活をしていました。

貫地谷しほり:
大学時代、お仕事をしていたというのは、家族をささえるためですか。

仲田海人:
僕自身の学費とか、僕自身が生きていくためにというところです。本当に苦学生だったので。うらやましかったのは、大学を卒業するタイミングでみんなが行く学生旅行です。僕は旅行するお金がなくて3月から働いていました。早くお金を稼ぎたいというところがあってすぐ働いたって感じで、それはうらやましいなと思いました。

家族と過ごす時間や、お互いの人生を大切にするようになった。

貫地谷しほり:
たくさんの苦労もあったと思うのですが、家族との楽しい思い出はどうですか?

金子萌:
父の病気にリミットがあるなというのがわかったので、積極的に旅行に行くようにしました。お金をためて留学でデンマークに行ったのですけど、そのデンマークに父と母が遊びにきてくれました。それで家族三人でロンドンとパリとコペンハーゲンを巡りました。
あとは『ロード・オブ・ザ・リング』という映画の大ファンで昔からニュージーランドに行くのが夢で、コロナの直前に2019年の1月ぐらいに有休1年分をとって家族3人で行きました。あと今月の頭にハワイに行ってきました。
おそらく父の最後の海外旅行になるだろうなという部分があったので、コロナの落ち着いたタイミングもあり、いま行くしかないと思い、検査手続きがいらなくなったというニュースを見て、すぐにチケットを取りました。

貫地谷しほり:
家族の結束ですね。

金子萌:
そうですね。両親といっしょにディズニーシーやUSJも行きました。父が病気になっていなかったら、親と海外旅行やテーマパークに行くなんてなかったと思います。
こういうことがなかったら家族と過ごす大切さはわからなかったので、そうしたものを共有できたのは良かったと思います。

仲田海人:
僕が10代の頃というのは、家族の中でお互い距離が近くて、お互いが傷つけ合っている時期でした。でも今は物理的な距離をお互いとることで、お互いに気づかうという関係性が少しずつできてきました。
姉も実家にいたときは、僕や家族と自分を比べてうらやましいとか、自分を蔑む発言が多かったんです。グループホームに入ってからは、姉の世界の中で楽しいことがたくさん出てきて、僕なんか気に留めなくなってきているんです。
そういった距離をおいて、お互いがお互いの人生を大切にすることで、今は弟と姉という関係性に戻れました。あくまでも弟として姉と会って話せることが幸せだなって感じますね。
以前は支援者の人たちに会いに行くと「しっかりしたごきょうだい」というふうに言われて肩のチカラが抜けなかったんです。それが今は、ほんとうにただの弟として向き合えるようになった。それが良かったです。

貫地谷しほり:
学生時代、学生らしくすごせていなかったというお話のあとなので、今のお話はすごく嬉しい気持ちになります。

特別扱いをしたり、レッテルを貼ったりせず、必要な時に手を差し伸べて。

貫地谷しほり:
周りの人たちに、ヤングケアラーのこどもたちへ、どう接してほしいというのはありますか。

金子萌:
まずヤングケアラーって言葉を知って、周りの人たちは味方であることを発信してほしいなと思います。特別扱いはせずに、けれど必要なときにサポート、手を差し伸べてあげる。

貫地谷しほり:
先程のお話で、ヤングケアラーであることを発信するのも大変だと思うのですが、そうした中で気づいてあげるのも難しいのではと思います。どういうことがあれは、早く彼ら彼女らも自分で言うことができると思いますか。

金子萌:
正直、ケアをしている側からは言えないと思うんですよね。私たちはこういう活動で発信していけますが、当人はなかなか難しいと思います。だからヤングケアラーって言葉を広めて頭のすき間に入れていただくことで、周囲の方がそのサインを見逃さないように、手を差し伸べられる人が増えてほしいです。

貫地谷しほり:
こどもを見て、ヤングケアラーかもしれないと思ったときに、その情報が出せるぐらい世の中に広めるというのが一つですね。

金子萌:
可哀想な子とか、ケアをしている子とか、レッテルを貼られるのもイヤなんですよね。特別扱いでなく、何かあったら味方になってあげるよって。支援というより、寄り添ってくれる人が増えてほしいです。

仲田海人:
難しいですね。僕は話すほうでしたが、そんな僕でも話す人は選んでいました。誰でもいいわけではなくて、こどもも大人を見極めていると思うんですね。
また、ヤングケアラーって言葉が出て来て、急に知ったかのように話しかけてくるのも、すごく横暴な関わりだなと思うんです。ヤングケアラーという言葉を使わなくても、その子自身の困っていることとか、なりたい夢があったとして、それを諦めなくてはいけない事情があるのだとしたら、別にケアの話をしなくてもその子自身に向き合えばいいと思います。家族のことを根掘り葉掘り聞く必要もないし、その子がやりたいことの背中を押すだけでもいいんじゃないかなと思います。

金子萌:
イジメとか貧困とか、こどもの抱えている問題はたくさんありますが、その中の一つにケア、介護というのがあるだけなんです。
このヤングケアラーという言葉が広がりはじめる前は、こどもがケアをしているとう発想すらない方、そんなことをしている人がいるということすら知らない方がいらっしゃったと思います。
こどもが抱えている問題の一つにケアというものがあることを、知ってかかわるかどうかで差が生まれてくると思います。
そのあとは仲田さんのおっしゃった通り、普通のこどもや学生が抱えている問題を解決するときとかかわり方は同じかなと思います。

ヤングケアラーのこどもたちが、夢を諦めないですむように。

貫地谷しほり:
ヤングケアラーと呼ばれる人たちに、自分の夢を実現するためにどんなサポートがあったらいいと思いますか。

仲田海人:
10代の頃って、例えば高校生なら大学とはどういうものなのかとか、そいういうことからしてまずわからない。進学した後の生活がイメージできない。それを知る機会、見たり聞いたりする機会があると貴重な経験になると思います。 ピアサポートをやってきて、僕が20代前半のときも、30代の人や似た境遇の目上の人の話を聞くことで、自分のこれからについてイメージができるというのはありました。自分がこれからどう生きていくのかを考えるためにも、いろんな人の話を聞く機会があるといいんじゃないかなと思います。

金子萌:
特に中高生って自分の見ている世界がすべてと思いがちじゃないですか。ケアしていたら、その場所でケアをしなくてはいけない、続けなくてはいけないと。そこが夢とかのベースになってしまうと思うんです。 でも、必ずしもそうじゃないんだよということを知ってほしいです。自分の夢を諦めなくちゃならないという、その思い込みを崩すようなことが必要だと思います。どういうサポートがあったらそれができるんだろうというのは、難しい部分もいっぱいありますが、諦めずにすむように社会制度などでその子がケアをしなくても成り立つ仕組みがあればいいと思います。 また、その思い込みを打破するために仲田さんがおっしゃる通り、ちょっと先輩の姿をみせて、ケアラーでもこんなことができるという可能性を知ってもらうことも必要だと思います。

仲田海人:
僕も10代のときそうだったのですが、高校進学、大学進学のときに自分の将来が決まってしまうんじゃないかと思い込んでいたんですよ。
僕だったら作業療法士って仕事は国家資格なので、大学に行ったら当たり前のように作業療法士になるんだって思っていました。でも意外と社会人になると、大学で学んだこととは違う仕事をしていたり、やりたいことで転職したりする人が大勢いました。
だから夢っていうのは、意外と自分次第で大人になっても挑戦できる機会がいくらでもあるんだと気づいて、僕はそこに夢があると思いました。
でもこどものうちってわからないですよね。それも知識次第だと思います。

貫地谷しほり:
よく言いますよね、夢がもてたらもう叶いはじめていると…。

仲田海人:
僕も、やりたいことがあれば常に口に出すようにしています。口にしていると実現していたり、誰かが聞いていて手伝ってくれるってことも起こります。
もともとは工学部に行きたかったという話をしましたが、それはロボットをつくりたかったからです。
作業療法士になって病院で働きながらでも、いろんな仕事にかかわれる機会があるんですね。作業療法士会という組織の中で国の介護ロボットを開発するという事業に2年間携わらせていただきました。
そういった仕事に携われたというのは、ある意味で夢の一つを叶えられたという想いが僕の中にあります。
でも僕は欲深い人間なんで、どんどん次々にやりたいことが出てくるんですよね。大人になってバイクや車をいじったり。他にDIYも好きだったり…。いろんなものをつくるとか遊ぶっていうことを通して、当時描いていたやりたかったことができているんだなってことがありますね。

金子萌:
中高生でケアをしていると、その毎日が当たり前になってしまい、何がやりたいかすらわからなくなって、夢すら見つけられないという子が大勢いるんだろうなと思うんです。究極的にはヤングケアラーはゼロになるべきだと思っています。 私は、こどもたちの本分である勉学や遊びに打ち込める環境をつくっていくべきだと思っています。部活もできる、勉強もできるという中で、自分で選択してケアをするというのはいいと思うのですが、ケアをせざるを得ないという環境になるというのはあるべきではないと思います。 ヤングケアラーをそもそも生まないように、大人がきちんとケアできるようにする。そのために社会制度などを使ってやっていくというのが、いまできることなのではと思います。

仲田海人:
僕が作業療法士を選んだことも、ある意味必然であったかなと思っています。姉のケアにかけた時間と労力と努力が、誰かのために活きるんじゃないかとこどもながらに思ったわけです。
僕は部活もやっていましたが、中には部活動をやめてケアをしなくちゃいけないこどもたちもいるとメディアで目にしました。部活をやめてでも家族のために時間をついやしてきたこどもにとって、その経験は部活と同じぐらい貴重な何かしらの経験になっていると思うんです。
それを今、ヤングケアラーと世の中が騒ぎ始めて、それを剥奪するような状況とか、君はこどもなんだからやらなくていいんだよって、こどもの気持ちを聞かずに奪い取ってしまうことはあってはならないと思っています。
それは、せざるを得ない状況だったのかもしれないのですが、その状況のままつづけてきた彼ら彼女らの想いというものがあります。それをどうこれからに活かしていくのかではないでしょうか。高校に行ったら何をしようか、大学はどこに行こう、県外に行こうかということを少し想像したときに、いまのケアが続けられないなっていう壁にぶちあたると思うんです。
そういうときに、きっと彼ら彼女らの心の中で想いや選択が動く瞬間があるかもしれません。そういったことを待ってあげるのも周りの大人の役割だし、彼ら彼女らに寄り添うことだと思うんですよね。焦らせないこと、大人の勢いにまかせないことが重要なのかなと思います。

貫地谷しほり:
今後の展望などはありますか。

金子萌:
ヤングケアラーが生まれてしまう背景には、ご両親が仕事をやめられないがゆえ、ケアを行えるのがこどもしかいないという状況があります。ヤングケアラーが生まれないために、こどもにかかわらずケアラーを助ける仕組みを構築していきたいと考えています。そのサービスを一刻も早くつくって、一人でも多くのケアラーを助けられるようにしたいと思っています。

仲田海人:
支援者がしっかりしていれば目が行き届くこともあるんです。結局は、どの仕事であっても人です。目の前にいる人の本当の悩みに気づけるかどうかは個人によってしまうと思います。
僕の場合は地元で保健師さんに出会って救われたところがありました。ケアラーに聞くと、一歩踏み込んで親身にしてくれた人はそれぞれ違うと思うんです。僕ら現場の作業療法士は、障がいを抱えた方、何か困っている方に接する仕事になります。支援者として、相手の心を大切にしながら、一人ひとりに真摯に向き合っていくということを今後も続けたいと思います。

貫地谷しほり:
今、ヤングケアラー当事者の方々にメッセージがあれば、ぜひお願いします。

金子萌:
自分がケアしている状況で、大変な自分を認めて、ねぎらってもらいたいです。
ヤングケアラーには、自分が大変な状況にあるということにすら気づけない人が大勢います。こどもである彼ら彼女らが、学校で勉強しながらケアするってことは、すごく大変なことです。自分のつらさを自分で認めてあげてほしいなと思います。そのうえで何かやりたいことや夢があったら、そこを諦めないですむ方法は絶対あるので、その方法を自分でも見つけてもらいたいし、周りの大人にも相談してと言いたいです。

仲田海人:
当時の僕を思い出すと、基本的に遊びが好きなこどもでした。それを諦めたくないって想いがあったから、いまがあると思っています。だから自分の好きなことを諦めずに追求してほしいです。
ケアが理由で、やりたいことができない時期があるかもしれませんが、タイミングとか状況にあわせてたくさんできる時間ができるかもしれないし、誰かに相談することで状況が変わるかもしれません。
こどもなんだからたくさん遊んでほしいなって思います。
そのときにしか感じられないこともあるし、そのときにしかできない思い出ものもあるので、それを大切にしてもらいたいです。

プロフィール

●貫地谷 しほり(かんじや しほり)
生年月日:1985年12月12日
出身地:東京都
2002年、映画デビュー。
2004年映画『スウィングガールズ』などに出演。2007年、NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』にて初主演。
2008年に第32回エランドール賞新人賞を受賞。2013年に公開された初主演映画「くちづけ」は第56回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞。
2022年には舞台「頭痛肩こり樋口一葉」で樋口夏子(一葉)役を熱演し、数々のテレビ、映画、舞台、の活動に留まらず声優やナレーションなど、様々な分野で幅広く活躍している。

●金子 萌(かねこ もえ)
株式会社 想ひ人 代表取締役。東京大学教養学部卒業。
外資系コンサルティング会社を経て外資系メーカーでシニアブランドマネージャーとしてマーケティング業務に従事。
若年性の認知症とパーキンソン病を患う父親を11年以上在宅介護している経験から「在宅介護者のケア」事業を行う『株式会社 想ひ人』を起業。
元ヤングケアラーとしてのドキュメンタリーがTBSや英国のBBCで放映されるなど、発信活動にも積極的に取り組む。

●仲田 海人(なかた かいと)
栃木県生まれ。栃木県那須塩原市ヤングケアラー協議会立ち上げメンバー。栃木県ケアラー支援に関する有識者等意見交換会委員。とちぎきょうだい会を運営。
埼玉県立大学保健医療福祉学部作業療法学科卒業。小学校高学年のときに姉が不登校になり、後に統合失調症を発症し、きょうだいヤングケアラーとなる。そのことがきっかけで保健医療福祉の道に進む。大学卒後は若者ケアラーとして姉のケアにかかわりながら、精神科病院での入院作業療法・デイケア・グループホームの業務に従事。現在はさいとうクリニック発達外来の作業療法士として勤務。作業療法士8年目。その他、グループホームなど地域の福祉サービス充実のために福祉サービスのコンサル業・講演業を行っている。
2021年10月に『ヤングでは終わらないヤングケアラー ~きょうだいケアラーのライフステージと葛藤~』を出版。